おいも研究室

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読書『読んで、訳して、語り合う。/都甲幸治』

英米文学専攻で修士課程に在籍していた頃の自分。お金も才能も無かったので、研究の道に進むのは諦めた。だけど、やっぱり今でも英米文学研究に憧れがある。楽しそうに文学について語る先生達の姿は素敵だ。そして、 いつも知らない世界を見せてくれて、考えたことがないことを考えるキッカケを与えてくれる。この本は、米文学研究者のそんな熱い思いを感じさせてくれて、大学時代を思い出させてくれた。

英語の達人は、どうやって英語を勉強したのか

まず、英語について。英語が上手な人って「どうせ、小さい頃から触れる機会が充分にあったんでしょ」とか「元々英語が得意で、ガッツリ留学して自然とできるようになったんでしょ」とか思っていた(いる)のだけれど、意外な事に都甲先生はどうやらそういう訳でもないらしい。中学、高校、大学受験の英語を勉強して、次は高校生向けの塾の先生に。二年後にアメリカに留学するも充分なコミュニケーションが取れず、ビデオを大量に買い込み、空き時間にずっとリスニングして、半年くらいしたら大体分かるようになったとのこと。

結局は、自分に合った、地に足の着いた地道な努力が英語力を造り上げるのだと思った。少し前、小学校の頃からの親友がアメリカに転勤になった。色々な意味で遠くに行ってしまったのが淋しい。とりあえず(という姿勢は良くないけど)自分も英語をやらなければいけないなと思う。

日本の文化・文学について考える(村上春樹を通して)

米文学者の本なので、日本についてはあまり言及されないかと思ったが、ガッツリ語られている。特に、村上春樹について。みんな、村上春樹が大好きである。みんなの好きさが伝わってきて、そしてその読み方が深くて面白かった。特に、以下の話が興味深い。

  • 当時の作家はみんな原語でテクストを読んでいた。村上春樹は実は非常に古典的に、複数の言語で考えながら日本語を書き換えていくことをしている。
  • 偽物であることのオリジナル。翻訳は劣化コピーではない。文化は、いつも翻訳でリミックスしている。
文学の「読み方」について

本書で次の記述を読んで、都甲先生の授業を受けてみたいと思った。とても楽しそうである。自分が何かを伝える時も、こうでありたい。

大学の授業をするときに思ってることなんですけれども、文学の面白さを学生一人一人に体感させたい。体験型アトラクションみたいに、僕の脳みそという乗り物にのっかってもらって、こういう風に進んでいくとこんなに楽しいんだよっていうのを体感してもらって、じゃあ自分でも読もうかと思ってもらうということをすごく意識している。楽しさを身体で感じてもらうことが重要かなと思っています。

自分はセンター試験国語の小説問題が苦手で、15年経った今でもコンプレックスを持っている(呪いになっている)。自分勝手に読んで、明らかな誤読をするのは良くないと思うけれど、学校の試験のせいで小説を読まなくなってしまうのは悲しい。(小説の入試問題については、タイムリーにも今週のタモリ倶楽部で取り上げられるようなので、観てみたいと思う。)そして、以下の星野智幸氏の発言を読み、気が楽になったというか、改めて文学を読む勇気を持つ事が出来た。

さまざまな読み方があっていいんだという意識で読まないと、本当は小説や文字を読む意味も醍醐味もない。僕は、読み手と書き手が、それぞれ自分という範疇から一歩外に出て出会う場が、文学というテクストの時空だと思うんですよ。それが日常の読書であっていい。でも、いまはみんな正解の読み方をしようとするか、自分に見えないものは絶対見たくないという姿勢で読むかのどちらかで、なかなかどちらのテリトリーでもない場所には出てこようとしない。目の前にわからないテクストがあったときに、わからないからうれしいとか、わからないからこそちょっと考えてみると思ってほしいんです。

この本を読んで、もっと文学を読もう、読みたいと思った。原書で英米文学を読んでみたいな、とも。(学生時代以来、実に10年ぶりだから読めない気がする。)また、翻訳についても興味を持った。翻訳の世界は全く知らないので、ちょっと勉強してみよう。