おいも研究室

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読書『コンビニ人間/村田沙耶香』

社会の「フツウ」に馴染めない主人公が、「コンビニ店員」に自分を見つける話。今まで「社会の歯車じゃなくなる」という話は沢山あったのではないかと思うのだけれども「自ら進んで歯車になる」という話はあまり無かったのではないかと思う。

私はこの作品を読んで「無理して周囲の「フツウ」に合わせなくても、自分の居場所は自分で見つけていいんだよ」というメッセージを感じた。主人公は明らかに「フツウ」ではないのだけれど、共感できる部分もある。例えば自分も、職場の同僚が人の悪口とかで盛り上がっている時に、合わせて話すことができない(し、できなくていいと思っている)。この主人公は物語の中では極端に描かれているが、決して遠い話でもない。

物語に出てくるサブキャラクターの男性(この人もまた「フツウ」という概念からはずれている)が「縄文時代から人は変わっていない」という発言を繰り返しするが、「人が孤独を恐れる」というのは、昔から変わらない原始的な反応だと思う。そして、孤独を恐れるあまり、人は連帯を強く求め、そこから「異分子の排斥」が始まる。しかし、そこでの異分子(フツウでない)の定義は極めて利己的であり、たとえ間違っていたとしても多数派が「正常=フツウ」となる。これは、身近なコミュニティでもそうだが、世界的にも、歴史的にも同様である。

この小説で、主人公の目線を通すと「みんながフツウで正しいと思っていることが、必ずしも正しくはない」ということが感じられる。何が正常で、何が異常かの境界線が揺らがされている。絶対的に揺るがない(変えてはいけない)真理も世の中にはあるが、「フツウ」を絶えず疑ってかからないと、世の中から虐げられている人や、生き苦しさというものは減らないだろう。